「神の湯」とされる名泉
「玉造(たまつくり)温泉」は宍道湖南岸に流れ込む玉湯川沿いに広がる島根県松江市玉湯町玉造にある温泉です。玉湯川沿いに大小の旅館、ホテル、足湯、温泉施設などが立ち並び、温泉街を形成しています。
温泉は神代の頃から湧いていたとされ、神話に出てくる少彦名命(スクナヒコナノミコト)が発見したと伝えられています。天正5年(733年)に編纂された地誌の「出雲国風土記」によれば、「ひとたび濯げば形容端正しく、再び浴すれば万の病悉く除こる。古より今に至るまで験を得ずといふことなし。故れ俗人、神の湯と白ふ。」と記されています。これは「一度温泉で体を洗えば肌が綺麗になって美しくなり、二度入浴すればどのような病気でも治ってしまう。昔から今日に至るまで効能がなかったという事はなく、人々は神の湯と呼んでいる」という意味です。今から1,300年も前の平安時代に「玉造温泉」の美肌効果や効能が知られていたことは、当時既に美肌の湯や薬湯としての地位を確立していた事を窺わせます。
さらに、平安時代中期の清少納言の「枕草子」にも「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と記され、「日本三名泉」の一つとして紹介されています。
「玉造」の由来
また、「玉造温泉」の「玉造」という地名は名前の通り、この地が古来より「玉を造る」、特産品の瑪瑙(めのう)で勾玉を作る玉作部という職人達の里であった事に由来しています。松江市内の花仙山(かせんざん)では青瑪瑙が産出され、弥生時代より花仙山の麓では青瑪瑙を原材料とした勾玉を造る工房が栄えました。勾玉はかつて天照大御神(アマテラスオオミカミ)に献上されたといわれ、これが三種の神器の一つである「八尺瓊の勾玉(やさかにのまがたま)」となったとされています。勾玉の産地とされる玉造には今でも町のシンボルとして勾玉をかたどった勾玉橋が玉湯川に架かっています。
鎌倉末期に再開発
平安時代には既に全国に知られる名泉でしたが、鎌倉時代末期には玉作川の氾濫による洪水で埋まってしまい見る影もありませんでした。しかし、同じく鎌倉時代末期の延慶2年に富士名判官義綱の家来綱久が主君の病気治癒の為に薬師如来に祈願した折に、夢枕で温泉の場所を告げられたとの言い伝えがあり、その後再び温泉が開発されるようになりました。夢枕には薬師如来の化身とされる白髪の老人が現れ、洪水の跡地に病を治す霊泉があると告げられたのです。
江戸時代の「湯之介」
江戸時代になると温泉の管理は「湯之介」と呼ばれる藩の役職により一手に取り仕切られるようになりました。「玉造温泉」には当時の松江藩が別荘とされる「お茶屋」を置き、代々の藩主が入浴に訪れました。「湯之介」は温泉、浴場の管理や税の徴収を行いました。「湯之介」による管理は明治維新前まで続きましたが、現在でも長生閣、長楽園、保性園といったホテルでは「湯之介」の末裔が源泉を管理して営業しています。
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