温泉の話

日本の温泉の歴史‐宗教的意味、戦国時代と江戸時代

温泉の話
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遺跡に温泉利用の跡

火山の国といわれる日本には温泉が全国各地で3千近くあるといわれています。世界でも有数の火山国として知られる日本には世界にある約1,500以上の活火山の7%にあたる100以上の活火山があります。全国各地に分布する活火山の周囲には数多くの温泉が湧き出ており、日本人、ひいては人類の歴史よりも更に長い太古から温泉の歴史があります。日本各地の古代の遺跡には温泉を利用した跡や浴室の痕跡が発見されています。長野県の上諏訪温泉の5千年以上前の縄文時代の遺跡からは温泉成分が見つかっており、温泉を利用していたのではないかと考えられています。

宗教的意味の温泉入浴

温泉資源が豊富な日本でも温泉は最初から一般に普及していたわけではありません。「日本書紀」に登場する第12代景行天皇の皇子「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」は東国遠征の帰りの途中に温泉で傷を癒したといわれ、温泉は「神の湯」と称され崇められるようになりました。

奈良時代になると仏教の伝来と共に「沐浴(もくよく)」の教えも伝わり、寺院では沐浴の為の施設が造られました。仏教の教えでは宗教的儀式として体を清める行為を「沐浴」と称し、各地の寺院では浴堂や湯堂と呼ばれる施設で僧が沐浴を行いました。寺院での沐浴は現在の様にお湯に浸かる形式ではなく、湯堂又は浴室の中を蒸して入る蒸し風呂(サウナ)の様なものでした。こうして温泉に入ったり浴堂や湯堂に入るという入浴行為は当初は一部でしか行われない宗教的意味が強いものでした。

戦国時代の傷を癒す温泉

戦国大名が全国各地に割拠する時代になると、相次ぐ合戦で負傷した兵士の傷を癒す為に温泉が活用されるようになりました。温泉は全国各地にありましたが、温泉を傷病兵の治療に積極的に活用したのは上杉謙信や武田信玄です。

特に武田信玄は現在の山梨県に当たる甲斐の国の各地に温泉を整備し、それらは「信玄の隠し湯」と呼ばれるようになりました。山梨県には下部温泉、川浦温泉、増富温泉、湯村温泉など数多くの温泉があり、現在でも利用されています。

こうした温泉は戦国時代には「隠し湯」として公にされることは少なく、大名、武将や兵士などがいつ何時利用しているかは秘密にされていました。戦国時代には大名が城や屋敷を離れて無防備で湯に入っているともなれば、他国や他勢力に襲撃される事につながり命取りになります。温泉がどこにあっていつ誰が利用しているかといった情報は重要な軍事機密として扱われていたわけです。

豊臣秀吉と有馬温泉

仏教の寺院では宗教的儀式として沐浴、戦国武将は戦の傷を癒す治療の目的で温泉を利用していましたが、戦国武将でも豊臣秀吉は治療というより観光や娯楽として温泉を利用しました。激動の戦国時代を勝ち抜いて天下統一を果たしていった秀吉は度々有馬温泉に訪れていました。徳川家康との小牧長久手の戦いを終えた後にも、関白就任後も正室のねねを連れて訪れています。秀吉は天下統一を果たした後も何度も有馬を訪れており、最早戦国武将が傷を癒す治療目的の温泉ではなく、観光・娯楽的要素の強い温泉利用となりました。秀吉は毎年のように有馬温泉を訪れるようになり、有馬温泉は天下人秀吉の支援を受けて一層の発展を遂げるようになったのです。

江戸時代の銭湯入浴

DSCF3744 / by uemura

江戸時代になると次第に一般庶民にも入浴の習慣が広まっていきました。今のように各家庭に浴室があったわけではありませんが、江戸では共同の浴場として銭湯が登場するようになりました。当時の銭湯(湯屋)ははじめは蒸し風呂の形式で、湯に浸かって温まるのは後々の事です。当時は一般庶民は裕福ではなかったので浴室がなかったは当然ですが、大店の商家や武家屋敷など裕福な家屋でも浴室があるところはほとんどありませんでした。これは江戸が幕府の中心地として人や建物が密集し、火災が頻繁に起こっていた為に防災の観点から火を使う浴室の設置が禁止されていた為でした。一般家庭では入浴できない為に幕府から特別の許可と免許をもらった湯屋(銭湯)が営業するようになったわけです。江戸市中には19世紀初頭には500軒近くの湯屋(銭湯)があったといわれており、江戸においては銭湯に入る事は日常行為としてして浸透していたのです。

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