武雄温泉の由来と歴史
「武雄温泉」は佐賀県西部の蓬莱山の麓に湧く武雄市の温泉です。同じく西部の「嬉野温泉」と並んで佐賀県を代表する温泉で、由来や歴史に共通するものがあります。「嬉野温泉」と同様に「武雄温泉」は和銅6年(713年)に編纂された「肥前国風土記」に記述があり、いずれも1300年以上の歴史があります。
また、「嬉野温泉」は神功皇后(201~269)が三韓出兵の帰途に発見したとされていますが、「武雄温泉」も神功皇后が出兵の帰途の際に立ち寄り、太刀の柄で岩を突いたら温泉が湧き出たと伝えられています。こうして「武雄温泉」は柄で突いたら湧き出たとの伝説から古くから「柄崎温泉」と呼ばれていましたが、蓬莱山の麓に湧く事から「蓬莱泉」とも呼ばれたりもしましたが、現在では「武雄温泉」と統一されています。
武雄温泉のシンボル‐楼門と新館
「武雄温泉」のシンボルともいえるのが武雄温泉の楼門と武雄温泉新館です。楼門は朱塗りの赤と漆喰の白模様が美しい異国情緒溢れる造りで、門をくぐれば武雄温泉新館が見えてきます。楼門は釘を1本も使わない天平式楼門で、大正13年に建設されました。新館にはかつて共同浴場として利用されていましたが、現在は武雄温泉の歴史資料等を展示する資料館となっており、浴場の跡と休憩所として利用されていた座敷を見学する事ができます。楼門と新館はいずれも東京駅などの設計を手掛けた建築家辰野金吾氏の設計で、国の重要文化財に選ばれています。
武雄温泉入浴の掟「豊臣秀吉柄崎温泉定書」
「武雄温泉」はかつて豊臣秀吉が朝鮮出兵をした際に兵士の湯治場として指定した温泉で、現在でも兵士達が入浴する際の掟を定めた定書が残されています。秀吉は天正20年(1592年)の朝鮮出兵の文禄の役の際に「柄崎温泉(現在の「武雄温泉」)を湯治場に定めました。多数の兵士が地元の温泉に押し寄せて無法をしない様にと三箇条からなる朱印状を発行たのです。その内容は、地域の住民に無理難題を押し付けてはいけない、湯に入るなら宿賃として一人五文を支払うこと、薪柴の為に屋敷の周りや指定地内の樹木を伐採してはならないというものです。
歴史上の重要人物も入浴
「武雄温泉」は江戸時代に宮本武蔵、伊達政宗、吉田松陰、伊能忠敬やシーボルトといった歴史上の重要人物も立ち寄って入浴しています。創業400年の老舗旅館「東洋館」は剣豪宮本武蔵が兵法書「五輪の書」の構想を練った宿として知られています。「東洋館」のフロントロビーには当時宮本武蔵が使用したという井戸が展示してあります。
武雄温泉の大衆浴場と貸切湯
「武雄温泉」の大衆浴場には3種類の風呂と貸切湯があります。明治9年に建築された大衆浴場には「元湯」、「蓬莱湯」、「鷺乃湯」の3種類の風呂がありますが、「元湯」と「蓬莱湯」の入浴料は大人400円で、「鷺乃湯」が大人600円となります。一番高い「鷺乃湯」はさずがに一番広くて設備も充実していますが、他の2つの風呂も温泉情緒溢れる造りとなっています。
更に、大衆浴場では時間制の貸切湯となる「殿様湯」と「家老湯」があります。「殿様湯」は白と黒の菱形模様の大理石に囲まれた風呂で、鍋島藩主の専用として利用されていたもので、シーボルトも入浴したと伝えられています。
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